
「チェチェンへ アレクサンドラの旅(原題:アレクサンドラ)」は、天皇ヒロヒトを描いた「太陽」のアレクサンドル・ソクーロフ監督作品である。チェチェン共和国の首都・グロズヌイにある現実のロシア軍駐屯地とその周辺でオールロケーションを敢行し、フィクションとノンフィクションの狭間で戦争の現実を描き出した。
ストーリーそのものはシンプルだ。職業軍人の孫を駐屯地に訪ね、また帰国する一人の老婦人の物語。時間にすればたった3日間のできごとにすぎない。しかしアレクサンドラはすべてを目にしようと駐屯地内や周辺の市場をおぼつかない足取りで歩き回る。彼女が目にする徴兵された兵士たちは皆一様に若い。いがぐり頭をアレクサンドラになでられ、うれしそうな顔をする若者たちだ。「結婚しないの?」「ロシア人の女は嫌いだ」「どうして?」「金のことばかり言うから」。無邪気な会話。彼が女性に触れたのはいつなんだろう。
そして職業軍人の孫・デニスは任務に倦(う)み疲れ、薄汚れている。「自分たちは現地の住民から嫌われているばかりではなく、恐れられてもいない」。意味をなさない駐留に人生をとろとろと搾り取られていく苦痛。そこには戦争の美学などみじんもない。
かつて米国の批評家、スーザン・ソンタグは著書の中で、戦争写真、反戦映画に潜むエンターテインメント性を、他者の苦痛を眺める目線に潜む自己欺瞞を開示してみせた。華々しい戦闘シーン、銃弾に倒れる兵士、祖国を思って涙する少年兵……。これら過剰に劇的な映像は「反戦」の名を掲げながら、逆にヒロイックな幻想をかきたてる。
しかし「アレクサンドラ」には一発の銃声すら響かない。登場する武器といえば旧式の小銃、ホコリまみれの狭苦しい装甲車、ときおりスクリーンを横切る戦闘ヘリくらいだ。あとは赤茶けた大地と迷彩色しか存在しない世界での生活──食事、洗面、睡眠、武器の手入れ、歩哨勤務──の繰り返しが無限に続く。映画全体を覆う主旋律をひとことで表すなら「徒労感」だろう。
一方、横流しされた軍用品や菓子、煙草など兵士向けの品物が並ぶ駐屯地周辺のマーケットには、いびつな形であろうと普通の生活がある。嫌悪の眼を向けられ疲れ果てたアレクサンドラに「でも私たちは姉妹よ」と呼びかけるのは高齢の現地女性・マリカだ。モノトーンのロシア軍駐屯地に対して、マリカの家の中には豊かなカフカスの色彩がのぞく(彼女の部屋着の美しいこと)。彼女たちの生活から色が奪われることはない。ここは彼女たちの「祖国」なのだから。「スラブ人は分からないわ」「いつも何かを求めている」「でもそれが何か知らない」
マリカと出会った夜、アレクサンドラは心を開き「一人は寂しい」とデニスに訴え、デニスはその思いを抱きしめる。しかし至福の一夜の後、彼は再び任務へと赴く。やむなく帰国するアレクサンドラ。市場のマリカに別れを告げ、ひとり列車に乗り込む。狂おしい思いにかられ、デッキから身を乗り出すように後方を振り返るアレクサンドラ・イワノヴナ。しかしマリカは彼女を見送るでもなく自分のいるべきところ、カフカスへ戻っていく。疲れ果て、デッキにくずおれるロシアに背を向けて。
(文・井手ゆきえ)
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「チェチェンへ アレクサンドラの旅」(2007年、露・仏)
監督:アレクサンドル・ソクーロフ
主演:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
09年正月、渋谷・ユーロスペースほかで全国順次公開。
作品写真:(C) Proline-film (C) Mikhail Lemkhin