
「ものを作る工場には、たくさん機械があります。世の中のほとんどの人は、有名メーカーの機械は手入れをして、大事に使い続けるでしょう。でも、隅に置いてある名もない機械は、壊れたら新しいものに替えられるだけです。実をいうと、この古ぼけた機械は長く気に留められず、金属疲労を感じ始めていました。今回の受賞は、僕に油を差してくれた。これでまだしばらくは、動くことができそうです」
2009年2月、第15回香港電影評論学会大奨の授賞式。20年を超す俳優人生で初めての大きな賞──主演男優賞を受賞した張家輝(ニック・チョン)は、感激のあまり泣きじゃくり、自分を機械にたとえて感謝の言葉を述べた。工場の隅の古い機械。こびりついた油と埃。いつかは捨てられる予感──「ビースト・ストーカー 証人」(08)で演じた孤独な誘拐犯は、黒い油と埃がなければ、存在しなかったかもしれない。

警官上がりのニック・チョンは、“体の頭がいい”。トレーニングや訓練では身につかない、持って生まれた身体的なセンスの良さが確かにある。そんな隠れた引き出しを開けたのは、杜h峰(ジョニー・トー)監督だった。「“間”をつかむ感覚が抜群だ」と絶賛したジョニー・トーは、初めて起用した「ブレイキング・ニュース」(04)で、刑事の彼をひたすら走らせた。続く「エレクション」(05)では、手だれの梁家輝(レオン・カーフェイ)相手に、黙って白いレンゲをこなごなに砕き、ばりばりと“食べさせた”。これが平凡な俳優なら、無言のシーンで「体で話す」ことができない。ジョニー・トーは動と静の対照的な場面で、彼のずば抜けた身体能力を映像で見せたのだ。

受賞作の「ビースト・ストーカー 証人」は、ニック演じる少女誘拐犯を、謝霆鋒(ニコラス・ツェー)演じる刑事が追う。少女の母の張静初(チャン・チンチュー)、ニコラスの上司を演じる廖啓智(リウ・カイチー)ら芸達者が脇を固める。ニコラス渾身の演技は、最後まで息もつかせない。スピード感あふれる展開と切れの良い演出で、ぐいぐい観客は引っ張られていく。この作品でもやはり、ニックの「間をつかむ力」が、いかんなく発揮される。香港・北角(ノースポイント)の雑踏を舞台に、後半4分にわたる逃走シーン。追いすがるニコラスを、歩道橋上に置き捨てる一瞬の間。現金輸送車の銃を奪い取り、振り向きざまに発砲する一瞬の間。百分の数秒の空白が、画面に見えない台詞を置いていく。
しかし、それ以上に画面を支配したのは、ニック演じる誘拐犯の、重く、灰色の霧のようにじっとりのしかかる、圧倒的な敗北感だった。男はほとんど言葉を発しない。取れないガラスの破片で眼を濁らせたまま、黙って誘拐を請け負い、少女をさらい、部屋に監禁する。一筋の情も見せず、淡々と仕事を片付けていく。饒舌で熱い刑事と対照的に、誘拐犯の憂鬱は、ぬぐってもとれない曇りのように、見る側に覆いかぶさってくる。
まとわりつく霧。それは彼自身が抱えてきた、黒い油と埃なのではないだろうか。ニック自身は気付いているのか。無意識なのか。もし、意識的に腹の底に手を突っ込み、観客に差し出しているとしたら──私は恐るべき演じ手の成長を、目の前に見ているのかもしれない。
ラストシーン。誘拐犯は濁った右目で、空を見上げる。雲間から漏れる太陽の光。きっと同じ明るさを、授賞式壇上のニック・チョンも、目に受け止めていただろう。
(文・遠海安)
「ビースト・ストーカー 証人」(2008年、香港)
監督:林超賢(ダンテ・ラム)
出演:謝霆鋒(ニコラス・ツェー)、張家輝(ニック・チョン)、張静初(チャン・チンチュー)、廖啓智(リウ・カイチー)
4月7日、シネマスクエアとうきゅうほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。
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