大河を望む小さな町に暮らす中年女性のマルタ。体調を崩しており、医師の夫が診察すると末期のがんだった。しかし、マルタはその事実を知ることなく、船着場のカフェで見かけた青年に恋をする――。
1950〜60年頃のポーランドを舞台に、人生の黄昏時を迎えた女性の心のゆらめきを、河辺の美しい情景の中に描いた「菖蒲」。ポーランドの作家ヤロスワフ・イヴァシュケヴィチの同名小説を、「カティンの森」(07)のアンジェイ・ワイダ監督が映画化した。
マルタは、第二次世界大戦中のワルシャワ蜂起で二人の息子を失くしている。マルタの目に飛び込んできた青年は、息子たちと同じ年頃である。心にぽっかりと開いた空洞を、青年に埋めてほしい。そんな思いだったかもしれない。
ただ、楽しく語り合うだけのつもり。ふざけて、ちょっとじゃれついてみた。すると青年はマルタを抱きしめ、唇を奪ってきた。思いがけない展開に、マルタは動揺する。親子ほど年の離れた二人が、一瞬にして男と女になる。ワイダ監督の腕が冴える、素晴らしいシーンだ。
青年と泳ぐ約束をし、マルタが水着姿で河辺に向かうシーンもいい。橋の上で恋人とキスをする青年を目撃し、狼狽するマルタ。慌てて引き返そうとするが、追ってきた青年につかまってしまう。羞恥と安堵の表情が浮かべるマルタが、なんとも言えず美しい。
青年はマルタのために菖蒲を採取しようと、向こう岸まで泳いでいく。ところがその時、予想もしなかった事が起きる――。
突然、夢を覚まされるような衝撃の展開。しかも驚くことに、次の刹那、マルタは演技を中断し、ロケ現場から逃げ出してしまうのだ。マルタという作中人物が、女優クリスティナ・ヤンダへと戻る瞬間だ。同時にワイダ監督ら撮影クルーの姿が映し出される。
そう、本作は原作「菖蒲」のドラマ部分に、女優のヤンダが本人として出演するドキュメンタリー部分を加え、さらにはワイダ監督の演出シーンも付け加えた、三重構造の映画なのだ。
ヤンダの夫は、ワイダ作品にも多数かかわった撮影監督のエドヴァルト・クウォシンスキ。ヤンダが出演した「大理石の男」(77)や「鉄の男」(81)も担当し、「菖蒲」も彼が手がける予定だった。しかし、2008年に病気で亡くなった。冒頭に配置されたドキュメンタリー部分で、ヤンダはそんな夫への思いを独白する。
その直後に始まるドラマは、彼女の演じるマルタが余命わずかの設定。マルタのロマンスは長続きしないことが運命付けられている。また、青年には死んだ息子のイメージがだぶっている。そこにヤンダの夫、クウォシンスキの死も重なる。生の輝きに満ちあふれているが、同時に、死の陰りも漂う作品なのだ。生と死を一体のものとして鮮やかに表現してみせた、86歳の巨匠の衰えを知らぬ創造力に圧倒される。
(文・沢宮亘理)
「菖蒲」(2009年、ポーランド)
監督:アンジェイ・ワイダ
出演:クリスティナ・ヤンダ、パヴェウ・シャイダ、ヤドヴィガ・ヤンコフスカ=チェシラク、ユリア・ピェトルハ、ヤン・エングレルト
10月20日、岩波ホールほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。
http://shoubu-movie.com/
作品写真:(c)Akson studio, Telewizja Polska S.A, Agencja Media Plus



