2014年11月19日

「破裂するドリアンの河の記憶」第27回東京国際映画祭 マレーシア、資本主義の矛盾と成長する少年

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 マレーシア。主人公は高校生の男女。茶畑や海辺でデートする二人は、青春を謳歌しているようにみえる。だがその後、二人は帰属する階層が異なり、やがて引き裂かれる運命にあることが示唆される。少年は富裕層に属し、卒業後はオーストリアの大学に進むことが決まっている。一方、少女は貧しい漁師の娘で、親がお膳立てした結婚話が持ち上がっている。相手は市長の弟。家庭の事情もあり、断れないようだ。

 地元では放射脳汚染につながるレアアースのプラントが建設されようとしており、反対運動が起きている。運動の先頭に立つ担任の女教師は、授業で生徒たちを啓蒙し、彼らを運動に引き込もうとしている。

 父親の捕獲した魚に異変を見た少女は、この問題に関心を持つが、少年は無関心である。しかし、少女やクラスメートに感化され、やがて少年も無関心ではいられなくなる。

 少年と少女の恋物語は、少女の妊娠、転居で突然中断。ここから先は、彼らを担任する女教師にスポットが移り、彼女が主人公となる。唐突に主役が交代する展開に驚くかもしれないが、前半を第1章、後半を第2章、それが継ぎ目なしに構成されていると考えれば、決して不自然ではない。

 女教師による授業風景が興味深い。タイやフィリピンで過去に起きた国家による民衆弾圧、人権迫害など、与えられたテーマに基づき、生徒たちがグループごとに寸劇を演じ、教師が解説していく。テーマの中には“からゆきさん”(19世紀後半にアジア各地で売春させられた貧しい日本人女性たち)も含まれていて、ぎょっとさせられる。

 寸劇を通じて学習していく風景に、ゴダールの「気狂いピエロ」(65)や「中国女」(67)を想起した。もはや歴史の授業という域を脱し、反政府イデオロギーを共有する場へと化している。当然のことだが、女教師は学校側と対立し、しだいに追い込まれていく。彼女の行動は過激化し、ついに超えてはならない一線を超えてしまう――。

 前半の主人公であった少年は、女教師に振り回されながらも、一定の距離を取り、彼女の行動の証言者としての役割を果たしていく。前半に姿を消す少女と、最後にいなくなる女教師。2人の大切な人物を失った少年の胸に去来するものは何か。平凡な高校生の成長物語の中に、新人監督エドモンド・ヨウは、資本主義社会の矛盾を照らし出した。

(文・沢宮亘理)

「破裂するドリアンの河の記憶」(2014年、マレーシア)

監督:エドモンド・ヨウ
出演:チュウ・チーイン、シャーン・コー、ダフネ・ロー、ジョーイ・レオン

作品写真:(c)Greenlight Pictures (c)Indie Works
タグ:レビュー
posted by 映画の森 at 08:10 | Comment(0) | TrackBack(1) | マレーシア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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第27回東京国際映画祭「破裂するドリアンの河の記憶」
Excerpt: コンペティション作品。東京国際映画祭のコンペにマレーシアの作品が参加したのは初めてだそう。若い感性が瑞々しい作品。しかし、どことなく懐かしい光景から始まり、あー、こういうまったりとした、ドメスティック..
Weblog: ここなつ映画レビュー
Tracked: 2014-12-24 12:49