
マレーシア。主人公は高校生の男女。茶畑や海辺でデートする二人は、青春を謳歌しているようにみえる。だがその後、二人は帰属する階層が異なり、やがて引き裂かれる運命にあることが示唆される。少年は富裕層に属し、卒業後はオーストリアの大学に進むことが決まっている。一方、少女は貧しい漁師の娘で、親がお膳立てした結婚話が持ち上がっている。相手は市長の弟。家庭の事情もあり、断れないようだ。
地元では放射脳汚染につながるレアアースのプラントが建設されようとしており、反対運動が起きている。運動の先頭に立つ担任の女教師は、授業で生徒たちを啓蒙し、彼らを運動に引き込もうとしている。
父親の捕獲した魚に異変を見た少女は、この問題に関心を持つが、少年は無関心である。しかし、少女やクラスメートに感化され、やがて少年も無関心ではいられなくなる。
少年と少女の恋物語は、少女の妊娠、転居で突然中断。ここから先は、彼らを担任する女教師にスポットが移り、彼女が主人公となる。唐突に主役が交代する展開に驚くかもしれないが、前半を第1章、後半を第2章、それが継ぎ目なしに構成されていると考えれば、決して不自然ではない。
女教師による授業風景が興味深い。タイやフィリピンで過去に起きた国家による民衆弾圧、人権迫害など、与えられたテーマに基づき、生徒たちがグループごとに寸劇を演じ、教師が解説していく。テーマの中には“からゆきさん”(19世紀後半にアジア各地で売春させられた貧しい日本人女性たち)も含まれていて、ぎょっとさせられる。
寸劇を通じて学習していく風景に、ゴダールの「気狂いピエロ」(65)や「中国女」(67)を想起した。もはや歴史の授業という域を脱し、反政府イデオロギーを共有する場へと化している。当然のことだが、女教師は学校側と対立し、しだいに追い込まれていく。彼女の行動は過激化し、ついに超えてはならない一線を超えてしまう――。
前半の主人公であった少年は、女教師に振り回されながらも、一定の距離を取り、彼女の行動の証言者としての役割を果たしていく。前半に姿を消す少女と、最後にいなくなる女教師。2人の大切な人物を失った少年の胸に去来するものは何か。平凡な高校生の成長物語の中に、新人監督エドモンド・ヨウは、資本主義社会の矛盾を照らし出した。
(文・沢宮亘理)
「破裂するドリアンの河の記憶」(2014年、マレーシア)
監督:エドモンド・ヨウ
出演:チュウ・チーイン、シャーン・コー、ダフネ・ロー、ジョーイ・レオン
作品写真:(c)Greenlight Pictures (c)Indie Works
タグ:レビュー