トニ・エルドマンとは、主人公であるヴィンフリートが創造したもう一つの人格である。学校の音楽教師をリタイアし、時間をもてあましているらしいヴィンフリートは、気が向くと入れ歯やカツラで変装し、トニ・エルドマンと名乗っては、悦に入っている。
そんなヴィンフリートにとって、気がかりなのは娘のイネスのことだ。コンサルティング会社に勤めるイネスは、ルーマニアのブカレストに赴任し、朝から夜まで働きづめ。たまにドイツの実家に帰ってきても、ケータイで仕事の打ち合わせばかりしている。結局、ろくに会話もしないまま、ブカレストに戻ってしまう。
イネスが心配でたまらないヴィンフリートは、はるばるブカレストまで彼女に会いに行く。驚くイネスだったが、仕事に忙殺され、父にかまっている暇などない。だが、あまり冷たくするのも気の毒に思ったか、イネスは財界人が集まる大使館でのレセプションに父を招く。ヴィンフリートは、取引先の役員を怒らせて落ち込む娘の姿に、彼女の仕事の過酷さを垣間見る。
企画、プレゼンテーション、接待と、休む間もなくスケジュールをこなしていくイネス。そんなイネスの前に、ヴィンフリートはトニ・エルドマンの姿で現れるようになる。同僚との食事会、上司と口論している屋上、ボーイフレンドと楽しんでいるパーティー。
まさに神出鬼没。ごく日常的な風景の中に、突如として姿を現す異形の中年男。リアルな世界をかき乱すシュールな人物。ビジネスでキャリアを積み上げるために、毎日必死で頑張っているイネスにとっては、迷惑このうえない存在のはずだ。
しかし、イネスは父=トニ・エルドマンを決して遠ざけようとはしない。彼の行動が、意地悪や悪ふざけなどではなく、自分を気遣ってのことだと分かっているからだ。
イネスは、いつのまにかトニ・エルドマンに癒され、影響されていく。手堅く、そつなく、常識的に。それまでの生き方を彼女はかなぐり捨てる。ヴィンフリートの娘ではなく、トニ・エルドマンの娘へ。その気になれば、自分も変身できる。イネスは覚醒するのだ。
リアルとシュールが絶妙なバランスで、全編に監督の非凡なセンスが光る秀作。カイエ・デュ・シネマ誌、スクリーン・インターナショナル誌など、世界の名だたる映画誌が年間ベストワンに選んでいるのもうなずける。
(文・沢宮亘理)
「ありがとう、トニ・エルドマン」(2016年、ドイツ・オーストリア)
監督:マーレン・アデ
主演:ペーター・ジモニシェック、ザンドラ・ヒュラー
2017年6月24日(土)、シネスイッチ銀座、新宿武蔵野館ほかで全国公開。作品の詳細は公式サイトまで。
http://www.bitters.co.jp/tonierdmann/
作品写真:(c)Komplizen Film