
ひとり夜道を歩く男。背後で停車する1台の車。数人の男が飛び出し、男を拉致して車は走り去る。サスペンス映画さながらの冒頭シーンである。 場所はアルゼンチン。男の名はアドルフ・アイヒマン。第二次世界大戦中、ユダヤ人数百万人を強制収容所に送った人物だ。終戦後にアルゼンチンへ逃亡、潜伏していたが、1960年にイスラエル諜報部(モサド)に逮捕された。
冒頭シーンは、その歴史的瞬間を再現したものだ。アイヒマンはイスラエルで裁判にかけられ、死刑を宣告される。ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者ハンナ・アーレントは裁判を傍聴し、雑誌「ニューヨーカー」にレポートを発表する。しかし、その内容は同胞ユダヤ人の神経を逆なでし、アーレントは猛烈なバッシングを浴びる――。

厳しい逆風の中で決して屈することなく、信念を貫き通した「ハンナ・アーレント」の姿を追った作品だ。
全世界のユダヤ人を敵に回してまで、アーレントが伝えたかったもの。それは20世紀最大の犯罪が、平凡極まりない人間によって遂行された事実だった。アーレントが傍聴席から目撃したのは、想像していたような凶悪な怪物ではなく、命令を忠実に実行する官僚的人物にすぎず、特にユダヤ人を憎んでいるわけでもなかった。
映画は傍聴席に座るアーレントと、法廷に立つアイヒマンとを対照的に描き出す。思考する哲学者と、思考を放棄した官僚的人物。アイヒマンの証言場面は、実写フィルムが使われて、その凡庸ぶりが生々しく映し出される。貴重な映像かつ重要なシーンの一つだ。

だが見逃せないのは、アーレントの報告にヒステリックに反発する大衆の存在だ。彼らもアイヒマン同様、思考を放棄している。アーレントの師で愛人の哲学者マルティン・ハイデガーが「思考とは孤独な行為だ」と語る。思考がいかに困難かを表現したのだろう。
アーレントは孤独と困難に耐え、徹底的に思考し続けた。そうすることで、かつてユダヤ人を虐殺し、今は自分を攻撃する“無思考”に対抗した。ラストの演説シーンは、無思考に対する思考の勝利宣言といえる。アーレントが整然と論理を積み重ね、聴衆を説得しながら、会場の熱気をかき立てる8分間は圧巻である。
(文・沢宮亘理)
「ハンナ・アーレント」(2012年、独・ルクセンブルク・仏)
監督:マルガレーテ・フォン・トロッタ
出演:バルバラ・スコヴァ、アクセル・ミルベルク、ジャネット・マクティア、ユリア・イェンチ、ウルリッヒ・ノエテン
2013年10月26日、岩波ホールほかで全国順次公開。作品の詳細は公式サイトまで。
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/
作品写真:(c)2012 Heimatfilm GmbH+Co KG, Amour Fou Luxembourg sarl,MACT Productions SA ,Metro Communicationsltd.
タグ:レビュー