
イタリアの巨匠、ベルナルド・ベルトルッチ監督の長編第3作で1968年に製作された「ベルトルッチの分身」が日本初公開される。1作目の「殺し」(62)、2作目「革命前夜」(64)のほか、4作目以降も日本ですべて封切られ(うち1作は未公開でビデオ化)、「ベルトルッチの分身」だけが幻の作品だった。ファンには待ちに待った初公開になる。
21歳で撮った処女作から6年、傑作「暗殺の森」(70)まで2年。映画作家としてほぼ成熟の域に達していたはずだ。ところが、見てみると成熟どころではない。まるで当時の“映研(映画研究会)学生”が撮った8ミリ映画のように、ジャン=リュック・ゴダールの影響があからさまなのだ。ゴダールへの傾倒は「革命前夜」にも見られていたが、劇中の上映作品や会話内容など引用レベルにとどまっていた。ところが、今回はタイトルデザイン、中断される音楽、寸劇仕立てのエピソード、唐突な殺人など、構成から演出までゴダール色に染まっている。

2年後、欧州のファシズムと退廃を描いた「暗殺の森」で世界を驚かせる鬼才が、この時期になぜゴダールなのか。「革命前夜」で引用されたゴダールの「女は女である」は61年の作品。その後ベルトルッチが本作を撮った68年まで、ゴダールは疾風怒濤の活躍を見せる。先輩であり同志でもあったゴダールは、見る見るうちに手の届かない存在となっていく。
ベルトルッチは混乱し、焦りを感じたのではないか。4年ぶりの長編には混乱と焦燥が、ゴダールへの同化という形で表れているようにも思えるのだが――。だからこそ面白い。ベルトルッチの素顔や本心が背後に透けて見えるからだ。溶かされ加工される前の、原型が垣間見えるからだ。その意味ではベルトルッチの核心に触れた作品といえるかもしれない。

原作はドストエフスキーの「分身」。真面目な教師と凶暴な殺人者──主人公の青年が2つの人格に引き裂かれるプロセスが描かれる。初期ベルトルッチ作品に共通するモチーフ“分身”を直截的に表現し、作家の原点ともいえるだろう。
(文・沢宮亘理)
「ベルトルッチの分身」(1968年、イタリア)
監督:ベルナルド・ベルトルッチ
出演:ピエール・クレマンティ、ステファニア・サンドレッリ、ティナ・オーモン
3月9日、シアター・イメージフォーラムほかで全国順次公開。「殺し」「革命前夜」と同時上映。作品の詳細は公式サイトまで。
http://www.zaziefilms.com/bunshin/
作品写真:(c)1968 Red films Produced by Giovanni Bertolucci
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